以下Wikipediaを要約・加筆したものである。
草津温泉は古くより名湯として知られていたが、明治の終わりの頃になっても交通機関が未発達であった。草軽電気鉄道はスイスの登山鉄道に着想を得て、軽井沢から草津や浅間山麓の高原地への輸送を目的に着工されることとなった。1915(大正4)年に草軽軽便鉄道として新軽井沢~小瀬(のちの小瀬温泉)間が開業し、順次、線路を北へ伸ばし、草津温泉までの全線が開通したのは1926(大正15)年のことだった。
全長55.5Km。軌間762mm。(新幹線1435mmは標準軌、在来線は1067mで狭軌と呼ばれているが、草軽電鉄はそれより狭い、本当の意味でのナロ―ゲージである。なお、新幹線が広軌と呼ばれることもあるが、世界的には広軌は1500mm超とされている。)
なお建設費用をできるだけ抑えようとしたため、急カーブやスイッチバックがいくつも存在し、山岳地帯を走るにもかかわらずトンネルは存在しなかったという。これはある意味では先見の明といえる。草軽電鉄の銘が示す通り後には電機運転になるが、当初は蒸機運転(浅間山麓を行く草軽軽便鉄道)だったという。ちなみに電機運転開始は1924(大正13)年。ということで最初の10年間は蒸機運転だったわけで、蒸機のノロノロ運転でトンネルをくぐると機関士が苦労をしただろう。
急勾配の上りは機関車にとってはつらいが、電気ブレーキをかけながら一定の速さで勾配を下るのは電気機関車でこそできる芸当で、蒸気機関車にとっては簡単な話ではない。それに加え本来道床に必要な砕石も敷かれない区間もあったとか。線路規格も極端に低いものであったことから、55.5Kmを走破するのに2時間半から3時間を要したという。
ア.国境平(こっきょうだいら・地図4)
さて、この草軽電鉄線が大分水嶺を越える。右の地図の「4.国境平」。赤い線が大分水嶺、浅間山の頂上を経て東面の斜面を流れ下り、”浅間白根火山ルート”と”国道144号”を越え、あと少しで南へ折れ曲がるというところである。大分水嶺上の標高が1277m。新軽井沢の標高が942m。標高差335mである。両駅間の営業キロが17.3Kmで、その間の平均勾配は19.4‰(パーミル)。碓氷峠旧線の66.6パーミルにははるかに及ばないが、かなりの勾配だといえるだろう。
周辺は、春から秋にかけてハイキング、冬はスキー場へと多くの客が列車を利用したようだ。次の”二度上駅”まで2.6Km。長日向駅から国境平を通り、二度上駅、次の集落の栗平駅までの6.5Kmは高原を満喫できるコースで当時は「四千尺高原の遊覧電車」と宣伝していたという。(昔は、その土地の標高を”尺”で表わす場合があった。上高地河童橋畔”五千尺旅館”もその例)。
イ.二度上(にどあげ・地図5)
大分水嶺を越えた群馬県側最初の駅である。ルート図によると、この駅にスイッチバックがあったらしい。行ったり来たり二度も三度も止まるから”二度上げ”という駅名ができたのかと思っていたが、一応は確かめておかないとと思って、Google Mapで”二度上”で検索してみた。駅が廃止になって随分日が経つから、何も出てこないだろうと思っていたのが、なんと出てきたのである。”二度上峠”が。こういう使われ方をされているということは、スイッチバックが語源の駅名ではない。もともと地名として使われていたことになる。スイッチバック語源説は見事空振り。
ウ.上州三原(地図9)
吾妻川を越えて最初の駅である。ルート図によるとこの駅の最終営業日が1962(昭和37)年2月1日となっている。念のためと思って、一つ手前(吾妻川の手前)の吾妻駅を見ると1960(昭和35)年4月25日。何となく違和感がある。鉄道線路が廃線になっていくのは、中心地(いまの場合でいえば軽井沢)から遠いほうから順にというのが相場である。ところがいまの場合はその逆である。いろんな解説文を読んでみると、廃線の決定打は1959(昭和34)年8月の7号台風による、吾妻川鉄橋の流失だったという。復旧不能のために嬬恋-上州三原はバス連絡となり、これにより、最終的に1960(昭和35)年4月、新軽井沢-上州三原37.9Kmの廃止となったという。
鉄橋流出という大事故、それも路線の中央部に近い、どちらか片方を廃線にという場合、一般的にはより中心地に近いほうが残ると考えられる。いまの場合、上州三原から草津温泉までの方がより重要度が高いと考えられたのだろうか。ひょっとして、車庫などが上州三原以北にあたのだろう。
右の地図は、いちばん下の軽井沢から北へ向かう。まっすぐ北上すれば何の問題もないのだが、実際は東へ西へ偏る。その分地図が左右にずれる。上下の地図で上下の整合性があるのは下の4枚のみである。
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